暮らしを心地よくするノート

人、物、事との付き合い方を見直して、暮らしを心地よくするための記録です。

水に流したいものはありますか?

100分deナショナリズムの録画を見ていて、番組内でヤマザキマリさんが本を紹介していた。


安部公房の『方舟さくら丸』。

あらすじを聴くだけで衝撃。


番組では、ナショナリズムの宿命は「選別」と「排除」という意見もあり…


でも、安部作品ってそんな感じか。



便器のくだりを聞いて思い出したのは、学生時代のある講義中のやり取りだ。

講師から始まった、物語を繋いでいくゲームのようなもの。




「ぼくのような可愛らしい、一寸法師のように小さな男の子がいました」

「目の前に扉が現れました」

「男の子は扉を開けました」

「そこはトイレでした」

「男の子はトイレに、えいっと飛び込みました」

「レバーを引いたら男の子はどこかへ流れていってしまいました。おしまい。」


全くやる気なしの微妙な空気の中、最終的にトイレに流して早々に終了っていう。


お椀に入ってるのは一寸法師ではなく餡子のお風呂に浸かった焼き餅。(ぜんざいと言え)



講師は、

「ぼくのような、って言葉を聞いた時点でみんなの中で少年は無意識にぼく(話を始めた講師)になっている。あなたがトイレに流したのはぼくだ。そんなふうにぼくを排泄物のように目の前から消したかったのか。」

と、悲しそうに言った。


講師に同情しつつ、心の中で「自分から振っておいて複雑だな!」と苦笑した記憶が蘇ってきた。


『方舟さくら丸』はそういう話ではないのだけど、不要なもの(作中で流すのは六角クロム)を手っ取り早く流して捨てるのは共通か。しかもトイレというアイテムが消し去りたいものと組み合わさることで、どこか後ろめたく侮蔑的なイメージにもなる。


そういえば、成田美奈子さんの漫画『花よりも花の如く』の主人公の若い能楽師は、人前では決して口に出来ない諸々の鬱憤を便器の中に向かって叫び蓋を閉め勢いよく水を流していた。


水洗トイレというアイテムは、「水に流す」という日本人の心にもぴったりくるんだなと思う。


もはやナショナリズムとはなんの関係もないけど(この記事自体ナショナリズムについて語りたいわけではない)、とあるカニバリズムが出てくるミステリーで(ネタバレすぎて逆にタイトルを書けない)人を殺して食べたのは排泄してトイレに流すためという究極の感情からだったというオチ(本当のオチは幸い覚えてないのでバラせない)もあった。


散々思考が番組内容から脱線した挙句、

私が水(トイレ)に流したいのはなんだろな、って思い始めたらたら、いよいよ番組の内容が

頭に入ってこない。


この録画、もう何回再生したか覚えてないけど、大体寝落ちか集中力が持たなくて最後まで一度も辿り着けない。

最後まで見て理解したら消してHDDの容量を増やしたいんだけど。


そうか、私が消したい(移したい)のは、HDDの膨大な録画だ。

さっさと整理しよう。


尾籠な話ですみませんでした。